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神戸地方裁判所 平成4年(人)6号 判決 1993年3月22日

主文

一  被拘束者らを釈放し、請求者に引き渡す。

二  本件手続費用は拘束者らの負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求者

主文と同旨

二  拘束者

1  請求者の請求をいずれも棄却する。

2  本件手続費用は請求者の負担とする。

第二  当事者の主張

一  請求の理由

1  請求者と拘束者大仁昭弘(以下「拘束者昭弘」という。)とは、昭和六三年二月一七日、婚姻届け出をし、被拘束者大仁陽子(以下「被拘束者陽子」という。)は、昭和六三年七月一七日に出生した長女であり、被拘束者大仁愛子(以下「被拘束者愛子」という。)は、平成元年七月一一日に出生した次女である。

拘束者大仁道夫(以下「拘束者道夫」という。)、同大仁豊子(以下「拘束者豊子」という。)は拘束者昭弘の父母である。

請求者と拘束者昭弘は、平成四年八月一二日の直前には、被拘束者らとともに、請求者肩書住所(以下、右住所を「請求者宅」という。)に一緒に住んでいた。

2(一)  拘束者昭弘は、口数が少なく短気な性格であり、平成二年頃からは夫婦間で殆ど会話はなく、平成二年一〇月頃には「食事がまずいので、これからは一人で夕食を食べる。」と言って、以後、夕食を自宅で食べないようになった。

また、拘束者昭弘は、平成二年一〇月頃より、仕事は五時に終わるが帰宅時間は殆ど一〇時頃であった。

(二)  平成四年六月頃、請求者が夜一〇時頃、友人から電話が掛かり、友人と話をしていると、拘束者昭弘は、いきなり請求者をベランダの方へ投げ飛ばした。

さらに、平成四年七月二八日、請求者が被拘束者らを連れて友人の鹿島宅へ遊びに行っていたところ、請求者昭弘は、同日午後一〇時頃、鹿島宅を訪れ、家に上がり込んで「なにしてるんや。」と言いながら、いきなり請求者の腹部を殴打し、投げ飛ばし、請求者は、このため右上腕神経不全麻痺の傷害を受け、現在も通院中である。

(三)  拘束者昭弘は、平成四年八月頃、離婚届用紙を持ち帰ってこれに署名を求めたが、請求者はこれを拒否した。

(四)  拘束者昭弘は、平成四年八月一二日、被拘束者らを連れて岡山の伯母のところへ遊びに行くと言って、岡山へ被拘束者らを連れて行き、翌八月一三日、被拘束者らを拘束者昭弘、同道夫、同豊子の肩書住所(以下、右住所を「拘束者道夫宅」という。)へ連れていったまま請求者の下へ帰ってこなかった。

3(一)  請求者は、その後、被拘束者らを引渡すよう拘束者昭弘に求めたところ、「わかった」との返事を受けたものの何の連絡もないので、平成四年八月二〇日、被拘束者らを連れて帰るために拘束者道夫宅へ行ったが、拘束者豊子は、被拘束者らを引き渡さないのみならず、面会さえさせてもらえなかった。

更に、請求者は、同年九月一日、母親の中木屋テル子とともに、拘束者道夫宅へ行き、拘束者道夫に対し、被拘束者らを引渡すよう求めたところ、拘束者道夫は「勝手にせい。子供を連れて帰れ。」と言い、請求者が被拘束者らを連れて帰ることを承諾した。そこで、請求者は、被拘束者らを請求者宅へ連れて帰ろうとしたところ、拘束者道夫宅から五〇メートル程出たところで、拘束者道夫と同豊子が後ろから追いかけてきて、拘束者道夫がいきなり請求者を投げ飛ばし、拘束者道夫及び同豊子は、嫌がる被拘束者らを強引に連れ戻した。そして、被拘束者らは、現在拘束者道夫宅で監護養育を受けている。

(二)  請求者は、平成四年九月末頃、神戸家庭裁判所に対し離婚の調停を申立てるとともに、被拘束者らの引渡を求めたが、拘束者らは、被拘束者らの親権、監護養育を主張し、被拘束者らの引渡を拒否したため話合いが付かず、平成四年一二月調停は不調で終了した。

4(一)  請求者は、被拘束者らの出生後、被拘束者らに対し、三時間おきに母乳を与えて育て、離乳後も一生懸命に面倒を見て来ており、育児に手抜きなどした事実はない。請求者は、今後請求者宅で、被拘束者らが幼稚園に入るまで、請求者の両親の経済的援助を受け、仕事に出ずに被拘束者らの面倒を見る予定であり、請求者の両親は、経済的援助を含めて被拘束者らの養育に対して各種の援助をすることを確約している。

(二)  現在、被拘束者らは、拘束者らの下で監護養育されているが、拘束者昭弘は容易に暴力を振るうような人間であり、拘束者道夫、同豊子もそれを容認するような人間である。また拘束者昭弘は、仕事で被拘束者らの面倒を実際に見ることはできないし、被拘束者らと接することができるのは、休暇の日くらいのものであり、被拘束者らの面倒を十分に見ることはできない。

また、拘束者豊子が、被拘束者らの面倒を見るとしても、母親の愛情をもって養育することは、到底不可能であるし、暴力を容認するような人間であるから、被拘束者らに対し、適切な監護養育をすることはできない。

(三)  夫婦の一方が他方に対し、人身保護法に基づき、共同親権に服する幼児の引渡を請求した場合、夫婦のいずれに監護させるのが、子供の福祉に適するかを主眼として子に対する拘束状態の当不当を定め、その請求の可否を決すべきである。ところで、被拘束者らは、未だ三歳、四歳の幼児で、しかも女子であり、この時期において、母親の愛情の下で自由にのびのびと養育されることが被拘束者らにとって最善であることは論をまたない。

5  よって、請求者は、人身保護法第二条及び同規則第四条により、拘束者らに対し被拘束者らの釈放と引渡を求める。

二  請求の理由に対する認否

1  請求の理由1は認める。

2  同2(一)のうち、拘束者昭弘は、口数が少なく短気な性格であり、平成二年頃からは夫婦間で殆ど会話はなかったということは認め、その余は否認する。

3  同2(二)の前段のうち、平成四年六月頃、請求者に午後一〇時頃、電話が掛かってきたことは認め、請求者をベランダの方へ投げ飛ばしたことは否認する。

同2(二)後段のうち、平成四年七月二八日、請求者が被拘束者らを連れて鹿島宅へ遊びに行ったこと、拘束者昭弘が、夜、鹿島宅を訪問し、請求者の腹部を殴打したことは認め、傷害、通院の事実は不知、その余は否認する。拘束者昭弘が、夜、鹿島宅を訪問したのは午後一一時である。

4  同2(三)は認める。

5  同2(四)のうち、拘束者昭弘が、平成四年八月一二日、被拘束者らを連れて岡山へ行き、その後、拘束者道夫宅へ連れていったまま請求者の下へ帰らなかったことは認め、その余は否認する。なお、拘束者昭弘の岡山行きは遊びではなく、拘束者昭弘の伯父(拘束者道夫の義兄)の初盆の墓参りであった。

6  同3(一)のうち、請求者が平成四年八月二〇日、拘束者道夫宅を訪れて被拘束者らの引渡しを求めたが、拘束者豊子がその引渡を拒否し、面会もさせなかったこと、請求者が同年九月一日、母親とともに拘束者道夫宅を訪れ、拘束者道夫に対して被拘束者らの引渡を求め、被拘束者らを請求者宅へ連れて帰ろうとしたこと、その際、拘束者道夫及び同豊子が後ろから追いかけて被拘束者らを取り戻したこと、被拘束者らが現在拘束者道夫宅で監護養育を受けていることは認め、その余は否認する。

拘束者らは、請求者への被拘束者らの引渡を承諾したことは一切ないし、被拘束者を取り戻す際に、拘束者道夫は、請求者らに対し暴力を振るったことはない。また、請求者は、拘束者道夫らが嫌がる被拘束者らを強引に連れ戻したと主張するが、請求者側の方がむしろ、「(一緒に行くことが)いやや。」と言う被拘束者らを無理やり連れていこうとしたものである。

7  同3(二)は認める。

8  同4(一)のうち、請求者が被拘束者らの出生後、被拘束者らに対し三時間おきに母乳を与えて育てたことは認める。請求者が被拘束者らの育児を手を抜かずに十分したとの点は否認し、その余は不知。

被拘束者らの出生後、請求者が被拘束者らに対し三時間おきに母乳を与えて育てたことは母親としての当然の行為である。

9  同4(二)は、否認ないし争う。

10  同4(三)について、一般論として、三、四歳の幼児が、母親の下で養育される方が父親の下で養育されるより、子の福祉に適うことは争わないが、本件の場合、後記拘束者らの主張のとおり、特別の事情があるから右一般論は通用しない。

11  同5は争う。

三  拘束者らの主張

1  拘束者昭弘と請求者との婚姻関係破綻の端緒は、平成三年九月頃、請求者が拘束者昭弘に対し「好きな人ができたから離婚して欲しい。」と申入れてきたことにある。拘束者昭弘は、これを拒否し、以後家に帰るのが嫌になったが、請求者が主張するように帰宅時間が殆ど午後一〇時になったことはなく、週に一、二回、午後一〇時頃になったに過ぎない。

2  拘束者昭弘は、平成三年一〇月頃「食事がまずいので、これから外で食べる。」と言ったのではなく、請求者が「食事代を渡すから、夕食を食べてきてくれ。」と言ったのである。請求者は、掃除が嫌いなため部屋中が汚く、食器、弁当箱を丁寧に洗わないため食器類はいつもヌルヌルの状態であったので、拘束者昭弘が止むを得ず掃除・食器洗いをすると、拘束者昭弘に対して当てつけかと詰め寄った。

3  請求者の主張中「平成四年六月頃、請求者が夜一〇時頃友人と電話で話していると拘束者昭弘が、いきなり請求者をベランダの方へ投げ飛ばした。」とは余りにも誇張した表現である。拘束者昭弘は、午前六時起床、七時前に仕事のため家を出るので、午後一〇時頃に就寝するのが常であった。請求者は、拘束者昭弘が午後一〇時頃就寝することが分かっているのにもかかわらず、しばしば、友人に電話したり、友人から電話が掛かってきた。そのようなことから、拘束者昭弘は、安眠を妨害されて腹が立ち、そのため、請求者をベランダへ追い出したのである。

4  さらに、「平成四年七月二八日、請求者が被拘束者らを連れて友人の鹿島宅へ遊びに行っていたところ、午後一〇時頃いきなり拘束者昭弘が、鹿島宅へ入ってきて、『なにしてるんや。』と言いながら、請求者の腹部を殴打し、投げ飛ばした。」という請求者の主張も、また、誇張である。請求者は、鹿島宅に昼過ぎから上がり込んで酒を飲んでいた。拘束者昭弘は、鹿島宅に行ったのは午後一一時頃であったが、請求者がその時、足元がふらつく程の泥酔状態であったので、即刻帰宅するようにきつく注意した。鹿島氏は、拘束者昭弘の仕事上の友人で、その日は火曜日で、翌日の仕事のこともあり、また子供も二人おり、請求者が鹿島氏とその家族に迷惑をかけていたので見るにみかねて、腹部を多少殴打したものである。

5  拘束者昭弘は、平成四年八月一二日、被拘束者らを連れて岡山へ行ったが、その際、請求者に対し、被拘束者らを拘束者道夫宅に連れて行き、請求者宅に連れて帰らないと伝えており、請求者は、被拘束者らを拘束者道夫宅に連れていくことを承諾し「帰ってこないのなら私の両親に買ってもらった子供用自転車を持っていってあげて」と言った。

6  請求者は、平成四年八月二〇日、拘束者昭弘が仕事に出たのを見計らって、午前七時四〇分頃、拘束者道夫宅へ来て被拘束者らを引渡すように要求した。拘束者豊子は、婚姻破綻の経緯を拘束者昭弘から聞いていたので、拘束者昭弘の不在中に、被拘束者を請求者に会わすのは適切でないと考えたため、拘束者昭弘が在宅しているときに来るように言って請求者の要求を断った。

7  その後、請求者は、平成四年九月一日、その母とともに、拘束者昭弘の不在を見計らって、拘束者道夫宅へ来て被拘束者らを引渡すように要求した。拘束者豊子も不在で、拘束者道夫が「駄目だ。息子が帰ってからにしてくれ。」と言い引渡を断ったところ、請求者は、「いやや。」といって首を横に振る被拘束者らを無理やり連れ出した。拘束者道夫は、驚いてこれを追いかけ、拘束者豊子も、たまたま、市場からの帰途、請求者、被拘束者らに出会い、拘束者道夫、同豊子と請求者、請求者の母親との間で、路上で言い争いになり、被拘束者らの奪合いになった。その際、請求者と拘束者豊子が揉み合いになり、請求者はバランスを崩して転倒した。その際、拘束者道夫は、請求者と約五メートルも離れており、請求者を投げ飛ばしたことなどない。

8  請求者は、拘束者昭弘の夕食中、ビールを飲みながら内職(タオルの箱詰め)の仕事をしたり、拘束者昭弘が就寝する午後一〇時頃に電話をしたり、実家、友人宅へ行って深夜に帰宅し、ときには泥酔のため友人に助けられて帰宅することもあった。請求者は、アルコール漬けと言ってもよい状態であり、また、家事嫌い、育児嫌いであるから、適切な監護、養育は望めない。

請求者は、被拘束者らに歯磨きを励行させなかったため、被拘束者らは、歯磨きの習慣がなく虫歯だらけであったが、拘束者らと同居するようになって、歯科医師の診察を受け、現在、朝晩、歯磨きを練習中である。また、請求者は被拘束者らの面倒を充分に見ることなく、飲酒、交遊に夢中であったので、被拘束者らは、しばしば風邪を引いていたが、拘束者らと同居してから風邪を引かなくなり以前より血色もよく、食欲も増進している。

9  被拘束者らは、三歳、四歳で、一般論としては、母親の愛情の下で養育される方が、仕事に追われている父親の下で養育されるより適当である。しかし、本件の場合、請求者は、アルコール漬けと言ってもよい状態であるから、請求者に被拘束者らを引き渡すことは被拘束者らの福祉に反する。

四  請求者の反論

請求者は、平成四年七月二八日、ビールを飲んでいたが、酔ってはいなかった。また、請求者がアルコール漬けで、家事嫌い、育児嫌いであることは否認する。

第三  証拠(省略)

理由

一  請求者と拘束者昭弘とは、昭和六三年二月一七日に婚姻届けをし、長女である被拘束者陽子が昭和六三年七月一七日に、次女である被拘束者愛子が平成元年七月一一日にそれぞれ出生したこと、請求者、拘束者昭弘及び被拘束者らは平成四年八月一二日の直前には請求者宅に一緒に住んでいたこと、拘束者昭弘は、平成四年八月一二日、被拘束者らを連れて請求者宅を出て拘束者道夫宅に身を寄せ、その後、請求者と別居状態にあり、拘束者昭弘の両親である道夫、同豊子とともに拘束者道夫宅で被拘束者らを監護養育していることは当事者間に争いがない。

右事実によれば、被拘束者らは、未だ三ないし四歳の幼児であって、意思能力を有しないことは明らかである。そして、このような幼児を拘束者らが手許に置いて監護、養育することは、必然的に被拘束者らの身体の自由を制限することを伴うものであるから、監護方法の当・不当に関係なく、人身保護法及び同規則にいう拘束にあたると解するのが相当である(以下、この拘束を「本件拘束」という。)。

なお、「被拘束者らを拘束者道夫宅で監護養育することについて請求者が承諾していた」と拘束者らは主張するところ、本件のように共同親権者間の場合、右主張事実は、後記、拘束の違法性に影響を及ぼすことはともかく、拘束の有無を左右するものでないと解するのが相当である。

二  次に、本件拘束の違法性について判断する。

人身保護法に基づく救済請求においては、人身保護規則四条本文により拘束の違法性が顕著であることが要件とされているところ、共に親権者である夫婦の一方が他方に対して幼児の引渡を請求する場合、当該拘束の違法性が顕著であるか否かは、いずれの下で監護養育される方が幼児の幸福に適するか否かを主眼として判断するのが相当である。

そこで、本件において、拘束者らの被拘束者らに対する拘束に顕著な違法性があるか否かについて検討する。

拘束者昭弘は口数が少なく短気な性格であり、平成二年頃から夫婦間で殆ど会話がなくなったこと、平成四年七月二八日に請求者が鹿島宅に遊びに行ったこと、拘束者昭弘が夜、鹿島宅を訪れて請求者の腹部を殴打したこと、請求者が平成四年八月二〇日、拘束者道夫宅を訪れて被拘束者らの引渡を求め、拘束者豊子が拒否し、面会もさせなかったこと、請求者が平成四年九月一日に母親とともに、拘束者道夫宅を訪れて拘束者道夫に対し被拘束者らの引渡を求め、被拘束者らを請求者宅に連れて帰ろうとしたところ、拘束者道夫、同豊子が後ろから追いかけて被拘束者らを取り戻したこと、及び請求の理由3(二)の事実は当事者間に争いがない。

右争いのない事実、前記一の争いのない事実に加えて、成立に争いのない甲第四ないし六号証、同第一〇、一一号証、同第一三号証の一ないし四、乙第四号証、証人中木屋テル子の証言により成立が認められる甲第一二号証、第一回準備調査の結果により成立が認められる甲第一号証、審問の全趣旨により成立が認められる甲第二、三号証、同第七ないし九号証、同第一四号証、乙第一ないし三号証、同第六、七号証、第一、二回準備調査の各結果、証人中木屋テル子の証言、請求者及び拘束者らの各供述、審問の全趣旨を総合すれば次の各事実が一応認められる。

1  本件拘束に至る経緯

(一)  請求者と拘束者昭弘とは、請求者が住んでいた芦屋市清水町七番一五―三〇四号で同居して生活を始め、神戸市東灘区本庄町二丁目一一―一七に転居し、続いて平成二年に請求者宅である県営住宅に転居して、被拘束者らとともに生活していた。

(二)  請求者と拘束者豊子とは、嫁姑の関係にあるが反りが合わず、請求者は、拘束者昭弘に不平をもらすようになったが、拘束者昭弘は「黙っておけ。」と言って取り合わず、拘束者昭弘が元来、寡黙であることもあり、平成二年頃から、夫婦間で充分に会話を交わすことがなくなった。そのため、請求者は、拘束者昭弘の態度に不満を募らせるようになり、平成三年頃から、夕食や掃除等の家事のことで拘束者昭弘と衝突し、不満の捌け口を友人との交際に求め、拘束者昭弘の就寝後、友人に電話するなどした。

(三)  請求者は、平成三年九月頃、拘束者昭弘に対し「好きな人ができたので、離婚して欲しい。」と言ったことから拘束者昭弘との夫婦仲はさらに悪くなり、同年一〇月頃、拘束者昭弘が請求者に対し夕食に不満を言ったことが契機となって、その後、夕食は、請求者と被拘束者らが自宅で食べ、拘束者昭弘が外食するようになった。

そして、請求者は、平成三年九月以降は、子供を連れて実家や友人宅等へ行って夜遅くまで帰ってこなかったり、時には友人宅で外泊したりし、また、飲酒する機会、量とも多くなった。なお、請求者、拘束者昭弘とも元来酒が好きで、結婚当初はスナック等へ一緒に飲みに行き、また二人で晩酌していた。

(四)  平成四年六月頃の午後一〇時頃、請求者へ友人から電話が掛かり、請求者がその応対をしていたところ、拘束者昭弘は、それにより就寝が妨げられたとして腹を立て、請求者をベランダへ突出したことがあった。また、請求者が平成四年七月二八日、被拘束者らを連れて拘束者昭弘の友人である鹿島宅を訪問して夜になっても帰らなかったため、業を煮やした拘束者昭弘は、同日午後一一時頃、鹿島宅に出向いたところ、請求者が酒に酔っていたのでこれに立腹し「なにをしているんや。」と言って腹部を蹴り、投げ飛ばしたことがあった。そして、これにより請求者は負傷し、同年末においても治療中(外傷による右上腕神経不全麻痺)である。

なお、その間の平成四年六月末頃、拘束者道夫、同豊子夫婦、同昭弘が仲人夫婦と共に請求者宅で請求者と会い、拘束者昭弘と請求者との関係について話合うため、請求者に対し請求者の親を呼ぶように言ったが、請求者がこれに応じなかったので話合いができなかった。

(五)  拘束者昭弘は、平成四年七月頃、離婚を決意して請求者宅を出ることを考えるようになり、同年八月初め頃、請求者が保管していた拘束者昭弘の生命保険証書、国民健康保険証、被拘束者の学資保険証書等を請求者に引渡させて拘束者道夫宅に持って行き、またその頃、離婚届用紙を持ち帰って請求者に署名を求めたが、請求者からこれを拒否されたことがあった。

(六)  拘束者昭弘は、平成四年八月一二日、被拘束者らを連れて岡山の伯父の初盆の墓参りのため、岡山の伯母のところへ行き、そのまま自宅に帰らないで被拘束者らとともに翌一三日から拘束者道夫宅で生活するようになった。

(七)  請求者は、平成四年八月二〇日、被拘束者らを連れて帰るために拘束者道夫宅へ行き、被拘束者らの引渡を求めたが、拘束者豊子は、請求者に対し被拘束者らとの面会、引渡しを拒否した。

その後、請求者は、同年九月一日、母親の中木屋テル子とともに、拘束者道夫宅へ行き、拘束者道夫に対し、再度、被拘束者らを引渡すよう求め、拘束者道夫からその引渡を拒否されたが、被拘束者らを請求者宅へ連れて帰ろうとして、被拘束者らを拘束者道夫宅から連れだしたところ、拘束者道夫、同豊子が後ろから追いかけてきて、路上で拘束者道夫及び同豊子と請求者及び中木屋テル子との間で被拘束者らの奪い合いとなり、結果的に被拘束者らを取戻された。

そして、被拘束者らは、現在、拘束者道夫宅で養育されている。

(八)  請求者は、平成四年九月末頃、拘束者昭弘を相手方として神戸家庭裁判所に対し離婚の調停を申立てたが、被拘束者らの親権・監護を巡って折り合いが付かず、同年一二月に調停は不調で終了した。

なお、拘束者らは、請求者が被拘束者らを拘束者道夫宅に連れていくことについて承諾していたと主張するが、請求者が承諾したと認めるに足りる証拠はない。

2  拘束者らの被拘束者に対する監護状況及び拘束者の事情

(一)  拘束者道夫宅は、平屋で、三畳、四畳、六畳の三部屋があり、台所、風呂等の設備がある。

(二)  拘束者昭弘は、なるべく午後六時には帰宅するようにして、被拘束者らとの接触に努め、両親(拘束者道夫、同豊子)、被拘束者らと一緒に夕食をとるようにするなど、拘束者らは、愛情ある態度で被拘束者らに接しており、今後も被拘束者らを養育することを望んでいる。

(三)  被拘束者の日常の世話は、専業主婦である拘束者豊子が主にしている。近所には稲荷神社の広い境内があり、外で近所の子供と遊ぶことも多く、健康状態は良好である。なお、被拘束者らは、両親の微妙な関係を理解しているらしく、拘束者らの面前で請求者のことを口にすることがない。

(四)  拘束者昭弘、同道夫は、拘束者昭弘の伯父(拘束者道夫の兄)が経営している大仁設備工業所(大阪市都島区大東町所在)に勤務し、配管の仕事に従事しており、拘束者昭弘は月収約四〇万円、同道夫は約三〇万円である。なお、拘束者昭弘の伯父には子供がいないので、将来は拘束者昭弘が伯父の右事業を次ぐ可能性がある。

3  請求者側の事情

(一)  請求者宅は、一一階建県営住宅の八階にあって、拘束者昭弘名義で県から賃借しているもので、現在請求者一人が居住しているが、離婚したとしても請求者に居住が許可される見とおしである。住宅の広さは、約八〇平方メートルであり、リビングルームが八畳、六畳が三間あり、家賃は現在七万二〇〇〇円で、将来八万四〇〇〇円に増額される予定である。また、請求者の両親は、請求者の兄とともに、請求者宅から徒歩五分位のところに居住しているが、実家は、二DKの広さであるため、請求者は実家に戻ることを考えていない。

(二)  請求者の父親(昭和九年一一月三〇日生、現在五八歳)は、西宮市の鉄工所に勤務して月額約四〇万円の給与を受けており、六〇歳で定年退職する予定であるが、定年後は嘱託として残ることを考えている。請求者の母親は、受付係としてホテルに勤務(なお、三日に一回の割合で勤務)しており、月収は約一六万円である。

拘束者昭弘は、本件拘束以後、請求者に生活費等は渡しておらず、請求者は、平成四年一〇月から、請求者宅から徒歩約五分のところにある外食店「ロイヤルホスト本山店」でウェイトレスのアルバイトをしている。時給は七五〇円であり、月収は一〇ないし一二万円程度であるが、生活費には三、四万円不足するので、不足分は請求者の両親が援助している。

(三)  被拘束者らを引取った場合は、被拘束者らが、幼稚園に行くまで、請求者は仕事には出ず育児に専念し、請求者の両親は、その間の生活費の援助及びその他の協力をすることを約束している。

4  請求者側と拘束者ら側との事情の対比

被拘束者らのように三、四歳の幼児にとっては、母親において、監護、養育する適格性、育児能力等に著しく欠ける等特段の事情がない限り、父親よりも母親の下で監護、養育されるのが適切であり、子の福祉に適うものとされている。そこで、前記の事実に基づいて考察するに、被拘束者らに対する愛情、監護意欲、居住環境の点では、請求者も拘束者らも大差は認められないが、父親である拘束者昭弘は仕事のため夜間及び休日しか被拘束者らと接触する時間がないのに対して、母親である請求者は被拘束者らが幼稚園に行くまで仕事をせず、育児に専念する考えを持っていることからすれば、請求者の下で被拘束者らが監護、養育される方がその福祉に適する。なお、現在、拘束者豊子が被拘束者らの世話に当っているが、通常、幼児の成長過程において母親の愛情を必要とすることは論をまたない。また、経済的な面では、請求者は自活能力が十分ではないが、請求者の両親が請求者を全面的に援助することを約束していることからすれば、この点において、拘束者ら側と比べて幾分劣るとはいえ遜色はないものと考えられる。

したがって、本件においては、被拘束者らを母親である請求者の下で養育することが子である被拘束者らの福祉に適うものと考えられ、結局、本件拘束には顕著な違法性があるといわざるを得ない。

ところで、拘束者らは、請求者はアルコール漬けで、被拘束者らの養育に適しないと主張する。確かに、請求者は、酒が好きなようで、本件拘束にいたるまで、幾分飲酒の機会、量とも多かったことは前記認定のとおりであるが、そのため被拘束者らの養育に支障を来す状態に至っていると認めるに足りる証拠はなく、また被拘束者らを引取ることになれば自戒してその監護、養育に当ることが期待できるので、請求者に被拘束者らを監護、養育するについて不適当であるとする特段の事情があるとは言えない。

三  結論

以上によれば、請求者の本件請求はいずれも理由があるので、これを認容して被拘束者らを釈放することとし、被拘束者らが幼児であることに鑑み、人身保護規則三七条を適用して、被拘束者らを請求者に引渡すこととし、本件手続費用の負担については人身保護法一七条、同規則四六条、民事訴訟法八九条を適用して主文のとおり判決する。

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